メサイア(10)

2005年09月30日 21:57

カソックからセーターとジャケット、
チャコールグレーのコートとカシミヤの茶色のマフラーに
着替えた羽村は、普段よりももっと若く見えた。
地味ではあるが良い品物を選んでいるし、センスも悪くない。
背の高い斎木は、全身黒のコーディネイトだった。
二人はst_Lの経営するタワービル内のレストランで食事をした。
斎木はローストビーフ、羽村は復活祭前の小斉(食事内容の制限)を
守って肉類は控え、香草を使った魚料理を注文した。
結局、斎木は前菜のサラダと二皿のローストビーフ、
何度も運ばせたパンと温かいチョコレートの
デザートまで残さず平らげたが、羽村はスープとパン、
魚料理とコーヒーで十分のようだった。
タワーから河川敷に造られた遊歩道に降りると、
水上バスが穏やかな水面を走っていた。
テラコッタのタイルで舗装された遊歩道に
ガス灯型の街灯が淡い光を投げている。

「相楽は神学校時代の同級生なんです」

「でも、司祭の服じゃ……ああ、いつもカソックってわけでもないか」

「ええ__、でも彼は司祭をやめてしまったんです」

なるほど、それで羽村はカップを取り落としそうになるほど驚いたのか。
普通は辞めていった元神父は神学校の同級生の勤める教会に
フラリとやってはこない。

「なぜ辞めたんです?」

でもそれがどうしてこんなに羽村を動揺させているのか。

「……」

「誰にも言いませんよ」

「すみません__疑ってるわけではないんです」

告解に伴う守秘義務と、聖職への信徒の様々な期待が
司祭を孤独にしていると聞いたことがある。

「信者じゃない人間には話せない、かな__」

きっと羽村も教会の仕事に忙殺され、それでいて打ち解けて話せる相手が
いないのだろう。もしかしたら、さっきの相楽が数少ないそんな相手だった
のかも知れない。

「相楽は__、教区の女性信徒と結婚して司祭職を離れました」

ああ、と斎木は思った。
日本でのカトリック信者は数もそれほど多くはなく、司祭になるという
ことは教会員の期待を一身に背負っていることと同じだ。
自分の所属の教区はもとより、洗礼を受けた母教会では特に期待が大きい。
それを知らぬでもない同期生の羽村としては、複雑なのだろう。
仲間が辞めてしまうことの残念さ、結婚を祝ってやりたくてもできない
申し訳なさは容易に想像できる。
はじめはためらっていたが、羽村は少しづつ口を開いた。
相楽の結婚の知らせは本人からではなく、同期生のメールであったこと、
今の今まで本人からの連絡はなかったことをかいつまんで話した。

「それで彼は何て言ってきたんです…子供ができたとか?」

「……それならおめでたいんですけどね、反対です。
 離婚したと言ってました」

それはまた、守秘義務が癖になっていなくても話しにくい。
斎木は羽村が気の毒に思えてきた。
日の暮れた隅田川の暗く波打つ水面を水上バスが走る。
はしゃぐ子供の声が川風に乗って吹き流されている。

「何を考えているのか__結婚したと思ったら、
 今度は1年もしないうちに離婚したというし……」

きっと何も考えていないんだ__と、オレンジ色のライトが
波に映り込むのを見つめ、羽村は嘆息した。

「それだけ? よくあるって言っちゃ失礼だけど、
 そう珍しいことじゃないでしょう__その、司祭の恋愛問題は」

羽村は反射的に斎木を見上げた。

「ええ、そう__そうですね…でも身内のことですから……」

斎木がミュンヘンの工房にいた頃から
独身制に折り合いがつけられずに辞めて行く司祭の話は
あちらこちらから聞こえてきた。
だが、同時に教会の掟に逆らってまでした結婚が
意外なほどに離別を迎えることが多いのもよく聞いた。

「羽村さんは、そういうことはないの?」

「え……!」

「あ、失礼__いきなりすみません…」

しかし気にはなる。聖歌隊の中に羽村を好きになる
ナースがいるかもしれない。

「たまに奉仕に行った先の教会で手紙をもらったり
 突然、好きだと言われたりすることはありましたが……」

「ははあ__」

「でもあまり実感がないんです…嬉しいような気は
 するんですが、その人のことを覚えていないことが多くて__
 なんと返事をすればいいのか分かりませんし、
 私は神父ですからとお断りするしか……」

「冷たいなあ」

苦笑する斎木に、羽村は申し訳なさそうに顔を伏せた。

「すみません……」

「ああ、いや、しようがないでしょう。
 ホントにあなたは神父なんだから__
 それで、彼は教会に戻ってくるんですか?」

「……わかりません」

羽村は苦い顔をした。

(戻ってきて欲しいのか____)

ヴァンプ亭での予想はあたってしまった。
追い詰められる、というのとは違うかもしれないが
相楽の個人的な行動や言動にいちいち左右され、
まるで未練のあるまま別れた恋の相手ででも
あるかのように、羽村は翻弄されている。
ヴァンプ亭での妙な空気はこれだったのか。

(きっと二人は__)

不意に強い衝動を感じた。
嫉妬とも違う。ただの欲情でもない。
ただ恋をしたと判る時の、あの不思議なものを
妙に納得して受け入れる瞬間が斎木を訪れた。

「相楽さんが何も考えてないっていうのはどうかな」

「え__」

「神父をやめたのにわざわざ会いに来たんでしょう、
 会って話したいことがあったんじゃないですか?」

川面を見たまま、羽村はこちらを見ようとしない。

「……」

「おれはまた、相楽さんがあなたを連れにでも来たのかと思った」

「そんなわけないでしょう__」

羽村は皮肉そうに笑った。

「第一、どこへ連れて行くって言うんです?
 自分からいなくなった人が」

(…許していないのか)

羽村は聖職者的な忍耐を自分に課している。
それでもなお、自分を置いて行った__あるいは司祭の誓願を
守らなかった相楽を許せないのだろう。

「そんなに許せない…あなたを置いて行ったから?」

「もう止めましょう、こんな話。そろそろ帰らないと__」

「逃げないで」

目をそらす羽村の腕を攫んで引き寄せたが

「関係ないでしょう__!」

羽村は手を振り払おうとしたが斎木はそれを許さず、
腕を掴んだままビルの死角へ入り込んだ。

「関係ない__? 真面目に答えなよ」

羽村は斎木を睨みかえした。




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